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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

Column|
『組踊の世界』 崎原綾乃


コラムでは、組踊をはじめとする芸能や琉球史に詳しい方々に寄稿をお寄せいただきます。

初回は、「組踊の世界」と題し、琉球文学をご専門にする崎原綾乃さんに、組踊についてわかりやすくご案内いただきました。

 

 

1 組踊とは

 組踊は、琉球王国で1719年に成立した古典劇です。台詞(首里の士族の言葉)、音楽(琉球古典音楽)、舞踊(琉球古典舞踊)で構成された歌舞劇(楽劇(がくげき))です。
 1972年5月15日に国の重要無形文化財に指定されました。2010年には、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
 人間国宝も認定されており、沖縄が世界に誇る芸能です。

 

2 組踊の成立

 組踊の発祥は、18世紀にさかのぼります。琉球は中国(明・清)と冊封関係*1を結んでいたので、琉球国王の代替わりの時には、中国皇帝の任命によって国王となっていました。
 冊封使(さくほうし)と呼ばれる中国皇帝からの使者が、琉球国王を任命する勅書を持って琉球を訪れます。
 その時に冊封使をもてなすために作られたのが、組踊でした。
 首里王府は、冊封使をもてなすために1718年に踊(おどり)奉行(ぶぎょう)という臨時の役職を設け、首里士族の玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)(1684-1734)を任命しました。朝薫は、名門の家に生まれたエリート官僚です。朝薫は、その時に組踊*2という演劇を創始しました。
 冊封使が琉球へやってきた1719年、冊封使をもてなすための宴で、組踊5演目を上演しました。冊封使が滞在している半年の間に七つの宴が開催され、その時に数番づつ組踊が上演されました。演目名は、「二童敵討(にどうてきうち、ニドーティチウチ)」「執心鐘入(しゅうしんかねいり、シューシンカニイリ)」「銘苅子(めかるし、ミカルシー)」「女物狂(おんなものぐるい、ヲゥンナムヌグルイ)」「孝行の巻(こうこうのまき、コーコーヌマチ)」でした。この演劇は、琉球にとって画期的なものでした。なお、宴の時には組踊のほかに琉球古典舞踊なども演じられました。この時にもてなしを受けた冊封副使・徐葆光(じょほこう)が『中山伝信録(ちゅうざんでんしんろく)』という書物に詳しく書いています。それによれば、組踊の初演は、1719年7月26日の重陽の宴でした。冊封正使・海宝、副使・徐葆光が観客です。重陽の宴では「二童敵討」と「執心鐘入」が演じられました。琉球の言葉で演じられるのですが、冊封使達は中国語で書かれたあらすじももらっていました。
 御冠船(おかんせん、ウカンシン)芸能*3は、1719年以降、踊(躍)奉行によって監督されています。その踊奉行の下に立方・地謡(たちかた・じうたい、ジウテー)、踊りや地謡の師匠、衣裳小道具担当などさまざまな役職の人々が付き従っていました。
 七宴という七つの公的な宴の際に首里城御庭の仮設舞台で上演され、冊封使は飲食しながら鑑賞しました。
 廃藩置県によって琉球国が沖縄県になると、一部の士族が芝居小屋を作り、そこで組踊などを上演して生活するようになりました。そのため組踊は庶民が見ることができるようになりましたが、組踊の人気は長くは続かず、沖縄芝居や琉球歌劇などに押されて上演機会は減っていきました。その後は芝居役者らによって組踊の技芸はほそぼそと受け継がれていきました。
 現在知られている組踊の演目数は約六十番です。玉城朝薫が1719年に上演した五番(「二童敵討」「執心鐘入」「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」)、1756年に供した田里朝直(たさとちょうちょく)の三番(「義臣物語(ぎじんものがたり)」「万歳敵討(まんざいてきうち)」「大城崩(うふぐしくくじり)」)、1800年以降に冊封使歓待の宴で供された「大川敵討(おおかわてきうち)」「花売の縁」などがよく知られており、研究もこれらを中心に行われています。

 

3 組踊の特徴

 組踊は、琉球の士族の価値観に基づいて作られています。そのため内容は、忠孝*4を前面に押し出したものが多いのが特徴です。主君の仇を討つ「仇討物」が圧倒的に多く作られました。
 組踊は、韻文の台詞、琉球古典音楽と琉球古典舞踊で構成されています。歌の歌詞、登場人物達の台詞は、琉歌のリズムにのって8・8・8・6の調子で歌ったり唱えられたりします。登場人物の唱えは、性別、年齢、身分によって異なっています。
 音楽は、地謡が演奏しますが、立方の心の中を表現しています。使われる楽器は、三線・箏・笛・胡弓・笛・太鼓です。立方はどんなに激しい心を内に秘めていても、それを口に出さず、地謡がその心情を代弁して歌います。音楽は、道行きには「金武節(ちんぶし)」、別れを惜しむ場面には「散山節(さんやまぶし)」などいくつもの決まりがあります。
 踊りは組踊のなかで重要な要素で、琉球舞踊の基本的な所作を用いて、多くの約束事があります。例えば喜びや悲しみで抱き合うシーンでは、立方はお互いに相手の肩へ手をやるのが型となっています。
 演劇としては、時計回りの進行(物語が過去に戻らず時間が進行する形で進む)、歌と唱えがあること、儒教的な忠と孝の主題、類型的なキャラクターなどがあります。組踊は能と比較される場合がありますが、それだけでは説明できないものがあります。琉球は清国との密接なつながりがあったことから、中国演劇の影響も指摘されています。

 

4 組踊の上演

 組踊は、冊封使を観客として首里城で上演するときは、首里城の御庭(ウナー)に仮設舞台を建設して、そこで演じられました。舞台は、三間四方の舞台で、橋掛(はしがかり)がついていました。舞台の中央には、本物の大松が立てられるのが基本でした。舞台奥には紅型幕(びんがたまく)がかけられました。なお、舞台様式は時代によって少しづつ変化し、現代の形になっています。
 組踊の衣裳・小道具は、琉球・日本・中国の美を集めたようなきらびやかさが特徴です。
 衣裳は、現在は紅型衣装を着ています。琉球国のころは、琉縫薄衣裳(りゅうぬいはくいしょう)とよばれる、琉球の衣裳に金銀の刺繍などを施した豪華なものでした。

 

5 組踊の楽しみ方

 組踊は、古典演劇のため台詞や所作に約束事がたくさんあって、それが「型」として定着しています。はじめて組踊を見るときには、あらすじを事前にチェックしておいて、あとはゆったりとした気持ちで鑑賞することをお勧めします。
 組踊を見に行くときには、昔から「チチニガイチュン(聴きに行く)」といわれていました。見に行くのではなく、聴きに行くということからわかるように、耳で楽しむ要素が沢山あります。音楽と抑揚ある台詞まわしにゆったりと耳を傾けてみてください。

 

6 組踊の今日的な広がり

新作組踊「真珠道」©︎(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 組踊は、琉球王国の国戯*5ともいえる演劇で、王国時代は盛んに上演・鑑賞されました。廃藩置県後は、芝居小屋で庶民を観客にして上演されましたが、その時にもさまざまな新作組踊が産まれ、上演されました。明治頃から沖縄県内各地方へも組踊が伝わり、村の豊年祭などで村人によって上演されるようになりました。それらの組踊は現在でも多くの地域で継承され、地域の誇りとなっています。
 現代でも組踊は数多く作られています。例えば、国立劇場おきなわでは新作組踊として芥川賞作家大城立裕氏による「真珠道(まだまみち)」などが上演され、高い評価を得ました。従来の伝統的手法を抜けだし、衣裳や唱え、物語の展開や舞台の使い方は現代的です。また、沖縄県立芸術大学の学生や卒業生による新作組踊の作品は、作者によってさまざまな個性があります。
 新作組踊は古典の組踊とは異なり、新しい演劇手法になっています。古典としての組踊が、さらに発展していくためには、古典作品のみを上演していくだけでは足りません。古典を常に上演しつつ、その片方でその時代にあった新作が次々と出てこないことには、古典の良さの再発見、新作による新陳代謝が図れません。それを見てよしあしの評価を述べる観客の存在もとても大切です。

 

*1 冊封(さくほう):中国(明・清)で冊をもって爵位を授けること。冊封の対象は中国(明・清)国内の臣にとどまらず、外臣(周辺国の君主)にも及んだ。琉球は中国(明・清)と冊封体制を結んでおり、その冊を受けることによって中国皇帝から琉球国王として任命された。

*2 組踊(くみおどり、クミウドゥイ):玉城朝薫が作った組踊は、琉球の歴史書『球陽』によれば、琉球の「故事」に由来した物語である、という。『球陽』には、「首里の向受祐が博く技芸に通じている。命じて戯師とし、初めて琉球国の故事で戯を作って人に教えさせ、その翌年に演劇を冊封使の宴席に供した。その演劇はその時から始まった。」という話が記されている。

*3 御冠船(おかんせん、ウカンシン)芸能:冊封使に対する宴で上演される芸能を琉球では「御冠船芸能」と呼んでいた。組踊、琉球舞踊、入子踊(いりこおどり)などがある。

*4 忠孝(ちゅうこう):忠は、主君に対して忠義を尽くすこと。孝は、親に対して孝行をすること。中国(明・清)では、忠孝が道徳思想となっていた。琉球でもその思想を大切にしていた。

*5 国戯:国の戯曲の意。



崎原綾乃(さきはら あやの)
沖縄市出身。琉球文学専攻。博士(文学)。趣味は琉球芸能鑑賞。

 

 


 

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