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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

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前編:『組踊にまつわる裏話~玉城朝薫ってどんな人!?』賀数仁然


コラムでは、組踊をはじめとする芸能や琉球史に詳しい方々に寄稿をお寄せいただいています。

第二弾コラムは、「組踊にまつわる裏話~玉城朝薫ってどんな人!?」と題し、琉球史に詳しい賀数仁然さんに、沖縄の史跡を辿りながら組踊の創設者である玉城朝薫についてご紹介いただきました。
前編は、朝薫誕生から組踊創作前夜まで。朝薫の横顔に迫ります!

 

ヨ、千両役者~!先日、歌舞伎界のプリンス市川海老蔵さんが、第十三代市川團十郎を襲名することになった。千両役者とは、一年に千両のギャラが出る人気歌舞伎役者のことだ。初めて千両役者になったのは、今からちょうど三百年前、二代目市川團十郎である。二代目が活躍していた、まさにそんな時代、当時別の国であった、琉球に新たな芸能が誕生する。ハイ。それが、組踊なんですね。創設者は、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)です。「劇聖」と語り継がれ、琉球から沖縄の時代を通して、エンタメ界不動のセンターでござりまする。ちなみにDA PUMPのセンターISSAは玉城朝薫の末裔になるそうだ。

1 そもそも玉城朝薫ってどんな人よ?…を探る旅

蔡温(さいおん)、程順則(ていじゅんそく)、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)など、当時の琉球には才能ある人材がそろっており、琉球における文化の最盛期に入っていた。第二尚氏13代尚敬王の即位で初めて世に問われたのが、組踊。当時清国であった中国からの使者に披露された。大絶賛を受けた組踊と玉城朝薫…歴史に名を遺したスーパースターとして、語り継がれることとなる。しかし、彼の歩んだ人生はあまり知られていない。ホントはどうだったのか?これがまたドラマチックであった!てことで、彼の波乱の人生とまつわる場所を歩いてみた。

 

2 首里城へ

まずは、やっぱり首里城!役人であった朝薫も、このあたりをウロウロと…妄想をふくらましながら、下御庭(しちゃぬうなー)にある休憩所へ。もう休憩?でなくて、ここはかつて「系図座」(けいずざ)という役所があったところ。家譜という家系図を作っていた場所だ。というのも、琉球にも身分制度があって、大雑把に言うと、二種類。士族か平民に分けられる。士族階級は、ここ系図座で作られた家譜(家系図)を持っている。士族を別名「系持ち」といい、平民を「無系」とよぶこともあった。玉城朝薫の家は…もちろん家譜を持っていた。それはある場所に保存されている。

<em>首里城系図座 ©︎ 賀数仁然</em>

首里城系図座  撮影:賀数仁然

 

3 手掛かりは久茂地にあった

んで、玉城朝薫の人生が記された記録、家譜。たどり着いたのは、沖縄県庁がある那覇市久茂地。
え?末裔に会いに来た?朝薫の末裔が、県庁に…ということではなく、那覇市歴史博物館だ。
ここには、朝薫の家の家系図が残されている。「向姓世系図」(しょうせいせいけいず)これが玉城朝薫の家系図。「向」と書いて「しょう」と読む。
はい、欠画といって、尚家本流に敬意を表し、読みは同じだけど、1画省略するわけね。朝薫って、いいトコの子だったわけね。

「生誕百年記念アルバム 伊波譜猷」より©️ 那覇市歴史博物館提供

 

「康煕二十三年甲子八月初二日生まれ」 1684年に首里儀保町に生まれている朝薫、幼い頃は思五郎とよばれていたんだね。幼い頃や近い身内からは「ウミゴロー」とよばれていたんだね。父上の名は朝致(ちょうち)さん、母上は真鍋(まなび)さん。奥様はメチャ良家の浦添家のご令嬢、真嘉戸(まかと)さんだ。ちなみに朝薫よりひとつ年上女房だ。あと家譜からは17歳で一度改名していることもわかる。これだけでも、朝薫の人物像が伝わってくるね。画像は、首里城近くの玉城朝薫生誕の地と、今も残る石畳道(那覇市文化財指定)。

玉城朝薫生誕生之地  撮影:賀数仁然

石畳道  撮影:賀数仁然

 

 

 

 

 

 

 

 

4 母へ

申し分のない家柄に生まれた朝薫。このあと、芸術に囲まれてスクスクと…と思いきや、家譜によると、いきなり波乱万丈がはじまっているのだ。彼が生まれてすぐ、父朝致と母真鍋が離縁している。朝薫はどうやら、父方に育てられたようだ。つまり、彼は母親の愛情を知らずに、幼年期を過ごしたことだろう。さらに、母はその後、再婚している。ここに朝薫の母への複雑な感情が芽生えたことは想像に難くない。そう考えると、彼が創作した組踊、いわゆる“朝薫五番”も、たんなる忠孝がテーマではない気がしてくるな。「孝行の巻」では母のために命を惜しまない子どもの話であり、「銘苅子」では子と別れ天に戻る母の姿が描かれ、「女物狂」では、盗人に誘拐された子を探す尋常ではない姿の母の姿が見てとれる。「二童敵討」では、父の仇を討つために、今生の別れをする母と兄弟の姿が見せ場となっている。「執心鐘入」以外は、お母さんへの思いがあふれているといってもいいくらいだ。いや、「執心鐘入」だって…。いやこれ以上の妄想は危険すぎる。次へ進もう。

組踊「女物狂」©︎(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

5 そしてひとり

母への思いを押し殺すように、父とけなげに生きる思五郎。ところがその父も、彼が4歳の時に病死します。彼は祖父朝恩(ちょうおん)に育てられる。彼の祖父、玉城親方朝恩は、玉城(旧玉城村、現在の南城市玉城)を領地としている総地頭だった。また、若い頃から芸能に秀でた人物でもあった。朝薫は彼の影響もうけていると考えられる。思五郎8歳の時、その祖父までもが亡くなってしまった。ついに、ひとりぼっちに。

一説によると、朝薫は、母の家に身を寄せたとか。ところが母はすでに与儀守包(よぎしゅほう 1663-1740 )という人と再婚していた。与儀は芸能に秀でた家系に生まれ、生涯に6度も躍奉行に任命される芸能エリート士族。朝薫とは躍奉行として首里城で一緒に勤めていたことも。朝薫の芸道には、守包の影響があったのかもしれない。

朝薫生誕の地、当時のものとされる(1700年代)首里古地図には、「玉城里主」の記載がある。里主(=里之主)位階は、時代からマッチしているが不確定。

首里古地図 ©︎ 沖縄県立図書館所蔵 CC BY 4.0

 

6 役人へ

最近、首里城の御内原が一般公開になった。正殿より西側が政治の世界ならば、東側は王族のプライベートエリア。この間を結び、国王近習として働く少年たちがいた。まさに朝薫は12歳で御書院付けの小赤頭となり、その役割を担う。王子から着物を下賜されるなど、活躍はめざましかったようだ。19歳に元服(※1)しているので(遅っ!)、以降は“玉城朝薫”を名乗っていたようだ。

御内原東  撮影:賀数仁然

 

7 結婚そして出世コースへ

19歳で結婚。先に書いた、年上女房真嘉戸さんだ。さらに旅役として薩摩へ。薩摩藩主島津吉貴へ能「東北(軒端梅)」(とうぼく・のきばのうめ)を披露。数年後には、高輪薩摩屋敷で女踊りを披露し、さらに江戸城にて三線を披露。この時中国の音楽でも魅了している。琉球国の使者として披露しているので、すでに芸能の才能を開花させ、認められているってことね。琉球はもちろん、日本や中国の芸能までもマスターしていているところもすごい。やっぱり朝薫だわ~。ちなみに彼は、通訳も兼任しているので、ペラペラだった。それもあってか、旅役として大和へ何度か出向く。20代は外交・芸能のエキスパートとして大活躍だね。

『琉球中山王両使者登城行列』[一部]©︎ 国立公文書館所蔵

 

8 那覇港の工事責任者

あまり知られていないことだが、1716年、朝薫32歳の時、那覇港の浚渫工事責任者になっている。前年に先代の尚貞王(しょうていおう)が薨去(こうきょ)されていて、冊封の船を迎え入れる準備もあったのだろうね。でもまてよ、芸能や外交畑をあるいてきた朝薫が、なぜ急にガテン系に? もしかすると、今でいうプロデューサーとしての手腕を期待されたのではなかろうか。というのも、どのような工程を、何人使って、どれくらいの予算で、いつまでに仕上げる。これぞまさに組踊を完成させるためには必要なことであり、誕生前夜ともいえるこの時期に、統括管理の責任者への抜擢は、その手腕を認められたとしか言いようがない。朝薫の本領発揮といったところだろう。一般的に、玉城朝薫という男は、プレーヤーとしての才能が注目されるが、彼は優秀な役人でもあり、多くのスタッフを束ね、芸術を創り上げる才能もあったのだ。現在の那覇港に残る三重グスク(ロワジールホテル側)にやって来た。朝薫も受けたであろう海風を感じ、三百年前に思いをはせる。

現在の三重城から見える那覇港 撮影:賀数仁然

 


(※1)元服: 通常は15歳頃

後編に続く→

 



賀数仁然(かかず ひとさ)
昭和44年12月9日 那覇市生まれ。作家・ラジオパーソナリティ 早稲田大学大学院 人間科学研究科修了(生命科学専攻)。新聞歴史コラム、琉球史関連番組(ラジオ・テレビ)企画構成・出演。琉球史ツアー企画、観光ガイド業も手掛ける。世界遺産にまつわる琉球王国の歴史文化とエンターテイメントの融合をテーマに展開中。2014年より近畿日本ツーリスト沖縄社共同開催している組踊1日バスツアーは毎回好評を重ねている。著書「さきがけ歴男塾」は、2016年沖縄本屋大賞3位。Amazon地域歴史散策部門1位獲得。

 


 

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