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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

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『組踊にまつわる裏話~伝説の場所をめぐってみよう!』賀数仁然


コラムシリーズも第5弾を迎えました。

賀数仁然さんによる人気コラム「組踊にまつわる裏話」、今回は、組踊の真の舞台ともいうべき劇中に描かれる実在の場所をめぐるお話です。

 

組踊300年。盛り上がっております。まずはおさらい。組踊は、中国演劇や、日本の芸能、具体的に能や狂言の影響に通じるところもあるともいわれています。つまり海外の芸能の影響を受けていますということでした。しかし、ベースの踊りや歌は琉球独自のものであり、さらに琉球に伝わっていた故事をストーリーにとりこんでいます。1719年頃に広く伝わっていた伝説・神話・昔話などの琉球説話が題材だったりするのです。つまり、その伝説の場所があるのですね。今回は組踊にまつわるアレコレの史跡巡りでございます。

1. 天女の泉

農夫である銘苅子(めかるし)が、松の木の下を通りかかるところから、始まる。すぐ近くの泉で天女が沐浴をしていた。あまりの美しさに銘苅子は心を奪われ…おなじみ「銘苅子」より。

組踊「銘苅子」©︎(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

じつは、その天女の泉がバッチリ残っています。地元の人は「シグルクガー」と呼んでいる場所です。沖縄では湧き水のことを、「カー」とか「ガー」といいます。残念ながら「シグルク」の意味は分かりませんでした。那覇市おもろまち、県立那覇国際高校の近く。佐川急便の裏にある公園内に、ひっそりと残っております。実は、沖縄戦の中でも激戦地であったこの一帯。このように保っているのは奇跡に近いと思います。ここです。

シグルクガー 撮影:賀数仁然

 

公園内遊歩道を歩くと、舗装されていない下り坂が見えますのでそこが天女の泉へのアプローチ。舗装されていませんので、雨の日など滑りやすい場合があります。足元要注意でお願いします。また、泉を守る古い石積みも確認できますが、岩盤が崩れやすい場所もあります。立ち入り禁止の看板があるところは、指示に従ってくださいね。
交通量が多く、喧騒のなかに森が広がっています。泉がある場所は人気も少ないので、ぼんやり眺めていると、本当に天女が降りてきそうな気がしてきます。このような羽衣伝説は、実は沖縄各地にあります。有名な所では、察度王(さっとおう)が天女の子とされ、宜野湾市にある森の川公園内に泉があります。また、琉球の神女組織のトップ聞得大君(きこえおおきみ)が、巡礼の旅で立ち寄る、与那原のウェーガーなどが有名です。

2. イケメンの眠る場所

つづいて「執心鐘入」。琉球国内で評判の中城若松(なかぐすくわかまつ)というイケメンが、奉公で首里城に向かう途中、とっぷりと日が暮れてしまい、やむなく民家に宿を求めるというお話です。ハイ、琉球の時代から絶世の美女といえば、今帰仁の志慶真乙樽(しげまうとぅだる)、イケメンは中城若松と決まっています。筆者は小さい頃、若松の再来といわれていました。祖母だけですが(笑)

組踊「執心鐘入」©︎(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

実はこの若松のモデルがいるのです。有力な士族、章氏。ここの家譜(王府編纂の家系図)には、始祖を「安谷屋城主若松」とすると記載がある。どうやら15世紀後半にまでさかのぼることになりそうです。ちなみに家譜は1689年以降、朝薫の創作はさらに30年後ですから、200年もの開きがありますので、そのへん考慮する必要はありますね。

中城若松公園入口 撮影:賀数仁然

 

そして旧安谷屋城。若松の居城でした。現在の名称は「中城若松公園」。そのまんまですね(笑)。世界遺産中城城跡の近くにあります。公園の入り口には、中城若松がお迎え。よく見ると鳥の〇〇が…。水も滴るイイ男ならぬ…以下自粛…さて、公園内には古い歌が刻まれた石碑があります。

 

歌謡集「おもろさうし」より中城若松を讃えた歌碑 撮影:賀数仁然

 

 

安谷屋の若松
あわれ若松
枝差ちへ 浦おそう若松
肝あぐみの若松

 

 

 

 

琉球最古の歌謡集「おもろさうし」第二巻にある歌です。意味は「安谷屋の若松様、人々から敬愛されている若松様は、立派な人である。若い松の木が枝を広げて栄えるように、港を統治されることだ」という感じだろうか。ま~そもそも、こうして歌に残るくらいですから、すこぶる評判がよかったことになりますね。

中城若松のお墓 撮影:賀数仁然

 

さらに上へ進むと、見晴らしがいい場所に、若松の眠るお墓があります。一説によると、彼は第二尚氏初代国王、尚円王の落胤ともされ、気品あふれる人物であったとも伝わります。組踊では、若松に一晩の寝床を頼まれた宿の女が、最初は怪しんで断りますが、若松と聞いただけで態度を変えます。手燭の明かりで顔を見ようとする所作も見物。いやはやモテる男はつらい。

3. あの鐘のお寺

「執心鐘入」よりもう一つ。宿の女に追い回されて、若松が逃げ込むお寺です。俗に“末吉の寺”とよばれたお寺で、現在の首里末吉に現存…しておりません。残念。崩れた石積みだけが残っています。しかし、石積みのそばには、当時の石畳道、末吉参詣道が残り、電柱などの人工物もなく、琉球王国時代にタイムスリップしたかのような場所です。

末吉の石畳 撮影:賀数仁然

 

あえて、曇った日の薄暗くなってくる夕方に行ってみました。理由ですか?若松の気分になってみたかったからです。だってホラ、祖母が…ということではなくて、作者である玉城朝薫が、ここで「執心鐘入」の着想をしたはずだからです。

 

境内の小径 撮影:賀数仁然

 

万寿寺という古刹で、15世紀、尚泰久王による創建ともいわれる(諸説あり)。『琉球藩雑記』の社寺旧記祭典之式によれば、「境内地四〇〇坪余」といいますから、金武町の観音寺より少し小さいくらい。当時42件もの寺が存在した尚泰久王時代とすると、中型規模のお寺と考えられます。玉城朝薫が生きた時代には、万寿寺であったが、のちに遍照寺という名前に代わる。徳川十代将軍家治の長女が万寿姫であったため、名称を改めた(『球陽』1763年)そうです。いわゆる忖度ですね。

わずかに残る石壇 撮影:賀数仁然

 

仏殿または何らかの建物があったであろう場所。石壇が確認できます。この規模のお寺であれば、仏殿と鐘楼が別になっていたことでしょう。「執心鐘入」では、若松が、座主ら寺の僧侶に助けを求める場所ですね。そして梵鐘に隠れるように促されるシーンです。

 

組踊「執心鐘入」©︎(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

梵鐘のあった場所はどこでしょう。一般的に鐘楼があったのは、入ってすぐか、右手。石壇までのアプローチが短いので、右手にあったかもしれません。画像の壁の手前くらいでしょうか。それでも鐘楼を作る場所にしては、狭いのではないでしょうか。朝薫の設定に疑問が浮かびますね。

鐘楼ちかくの壁 撮影:賀数仁然

はい。この寺の鐘は、一名「末吉の開鐘(すいしぬけーじょう)」呼ばれていました。戦前まで遍照寺にありました。現在は、県立博物館に現存していますが、通常は公開していないようです。1985年に県の文化財として指定されています。これ、高さ60センチくらいで、人が入るには狭すぎますね。ただし、県立博物館の学芸員さんに確認したところ、この鐘にまつわる話はいくつかあって、執心鐘入のモデルの鐘として確定してよいかは、今後の課題だそうです。いずれにしても、さほど大きい鐘がかかっていたとは思えませんので、朝薫はすこし“盛ったな”って思います。せっかくの夢をこわしてすみません。気分を直して次。

 

 

 

末吉宮への階段 撮影:賀数仁然

琉球では、お寺と神社がセットでありました。神仏習合というものです。明治期の廃仏毀釈まで、このスタイルが多かったのです。インド発祥の仏教と日本の神道が習合しているわけです。波之上宮と護国寺のように、琉球八社といわれる王府がスポンサーとなっていたお寺は全て神社と併設です。遍照寺(万寿寺)も、末吉宮がセットでありました。遍照寺跡の脇に、またもや古い石畳の参詣道が残ります。足元に十分注意してください。画像ではわかりにくいのですが、急こう配です。あとで気づいたのですが、最近は歩きやすい新参詣道ができていました。

 

 

 

新参詣道 撮影:賀数仁然

 

ようやく末吉宮にたどり着きました。社務所がありますが、ほとんど留守ですが、ここの参拝者には特徴があります。芸事をやっている方が多いと聞きました。実際、筆者は古典芸能の方とここで遭遇しています。やはり執心鐘入のイメージでしょうか。国立劇場おきなわの組踊の舞台に立っている組踊関係の人もいらっしゃるようです。若松役がよく似合うあの人とバッタリとか妄想が膨らみます。

 

末吉宮 撮影:賀数仁然

 

(完)



賀数仁然(かかず ひとさ)
昭和44年12月9日 那覇市生まれ。作家・ラジオパーソナリティ 早稲田大学大学院 人間科学研究科修了(生命科学専攻)。新聞歴史コラム、琉球史関連番組(ラジオ・テレビ)企画構成・出演。琉球史ツアー企画、観光ガイド業も手掛ける。世界遺産にまつわる琉球王国の歴史文化とエンターテイメントの融合をテーマに展開中。2014年より近畿日本ツーリスト沖縄社共同開催している組踊1日バスツアーは毎回好評を重ねている。著書「さきがけ歴男塾」は、2016年沖縄本屋大賞3位。Amazon地域歴史散策部門1位獲得。


 

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