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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

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『私たちの身近にある組踊〜沖縄各地の組踊と組踊台本〜』鈴木耕太

組踊をはじめとする芸能や琉球史に詳しい方々によるコラム。今回は、沖縄県立芸術大学専任講師で組踊研究者の鈴木耕太さんに、沖縄各地に広がる組踊について、専門家の観点から寄稿をいただきました。

 

今年は組踊が上演されて300年という節目の年である。研究対象としている組踊の記念すべき年に立ち会うことができて感無量である。さて、「組踊」ということばを聞いて、どのような場面が想像されるだろうか。琉球芸能に、なじみがある方もそうでない方も一応は想像をしてみて欲しい。というのも、組踊は必ずしも「敷居の高い古典芸能」とは言えないからである。今回私がいただいたお題は「地方における組踊」であるが、見方を変えて私たちの身近にある組踊について語っていきたい。

 

1.組踊の作品数と組踊台本

組踊は1719年(琉球では中国年号を使用していたのでこの年は「康煕五十八年」と表記される。)に玉城朝薫によって創作され、尚敬王の冊封において上演された。琉球国において琉球オリジナルの劇が作られ、上演されたことはかなり重要なことであったので、このことは『球陽』などに史実として採用されている。朝薫が組踊を創作した後は、国王が冊封を行う際の宴において必ず上演される芸能として組踊は位置づけられた。1719年を含めると、組踊は最後の国王である尚泰の冊封まで6回の冊封の舞台に準備され、上演された。

冊封が行われる際に、組踊は新たな作品を加えて上演されることが多かったようだ。「尚家文書」の『冠船躍方日記』(かんせんおどりほうにっき)という資料等を参照すると、琉球王国時代の冊封関係において上演された作品は、銘苅子・執心鐘入・護佐丸敵討(二童敵討)・孝行之巻・女物狂・万歳敵討・義臣物語・大城崩・北山崩・大川敵討・巡見官・忠士身替之巻・束辺名夜討・辺土之大主・我数之子・孝女布晒・姉妹敵討・花売之縁・天願若按司敵討(久志の若按司)・本部大主・瀬長按司・二山和睦・伊祖の子・伏山敵討・手水の縁の25作品であることがわかる。そして現在まで残されている「組踊台本」には前述した作品以外のものがある。それらをまとめると、琉球王国時代に創作されたと考えられる組踊作品は約70作品もあるのである。なぜ「約」とわざわざ曖昧に示しているのかというと、現在でも沖縄各地から古い「組踊台本」が発見され、その中にこれまでの作品とは異なる新たな作品が残されている可能性があるからなのである。

組踊の台本は、筆者の調べによると北は沖永良部島から、南は与那国島まで沖縄の有人島のほとんどで発見されている。これはかなり素晴らしいことである。琉球古典芸能の中で、沖縄各地(一部、鹿児島県)からその一次資料が発見されているものは組踊だけと言っても過言ではない。我々の想像を超えるほど、琉球王国時代において組踊は盛んに上演されたり、または読まれたりしていたのである。

なぜこの様に多くの「組踊台本」が沖縄各地から発見されるのであろうか。理由のひとつとして挙げられるのは、組踊が王府の行事における重要な演劇である、という事である。前述したように王府において冊封は琉球国王一世一代の儀礼である。その宴席において上演される芸能は、すべて士族の男性が担った。組踊の立方・地謡を担当する士族は、その内容を一字一句覚えなければならないことは言うまでもない。そのため、王府で所蔵している「組踊台本」から首里の士族へと書写され、そうやって首里の士族が所蔵することとなった「組踊台本」をまた別の者が書写して伝播していったことが考えられる。石垣島に残る「組踊台本」の中には、石垣の士族家から別の士族家が筆写したものがあり、士族の教養のひとつとして組踊が書写され、学ばれたことがうかがえる。王国時代末期や明治になると、都落ち(ヤードゥイ)をした元士族や学校に教師としてやってきた元士族らが村へ組踊を教えた事例や、新聞に掲載された組踊台本を書写して使用する例が増えてくる。このような仕組みで「組踊台本」は沖縄各地に広がっていったのである。

 

2.沖縄各地における組踊の上演

現在、組踊は「一般社団法人 伝統組踊保存会」が保持者団体に指定され、無形文化財を保持・伝承すべく公演を行っている。しかし、組踊の上演はそれだけではない。沖縄各地では今年の豊年を感謝し、来る年の豊作を予祝する「豊年祭」やその行事に準じて行われる「村芝居」「村踊り」がある。また、その上演される日は旧暦8月の十五夜にあたる地域もあり「十五夜」とも呼ばれている。このような宴に供されるのは、地域に古くから伝承されている獅子舞や棒踊り(棒術)、フェーヌシマなどの芸能だけではなく、古典舞踊や雑踊、狂言、そして組踊である。
地域で演じられている組踊のなかで多く演じられている作品は「久志の若按司」、「伏山敵討」(34ヶ所)、「花売の縁」(33ヶ所)、「忠臣身替の巻」(31ヶ所)、「大川敵討」(28ヶ所)である。どの作品も上演時間が長く、「花売の縁」を除くと出演者が10名以上必要な大作である。地方で上演される作品の多くは先に挙げた冊封関係で上演された作品である。詞章もきちんとした首里語の古語、王府所蔵や士族が所蔵していた「組踊台本」と遜色なく唱えられ、演じられている。また、このように地域で上演される組踊には「間の者」と呼ばれる役の詞章に、その地域特有のことばを盛り込むことがあり、組踊作品に新たな要素を加え、地域特有の作品に仕上げているものもある。このような「改作」を筆者は組踊作品が地域に愛されたが故のものである、と理解し、地域における組踊の素晴らしい変化であると捉えている。

また、多良間島や伊江島ではその島独自に組踊を創作して演じている。これらの作品は近年創作されたものではなく、創作された年は琉球王国時代にまで遡る。このことから、組踊ははじめ、琉球王府の儀礼に供するために首里士族を中心に創作されていたが、琉球王国末期には、地方においても創作され、またその作品が創作された地域で上演・伝承されているといえるのである。この事例からは、組踊は王府において士族のみに創作、上演されたのではなく、琉球王国の身分差にこだわることなく楽しまれた芸能であることがうかがえるのである。

 

3.舞台以外で演じられる組踊

さいごに、舞台以外で行われた組踊についていくつか事例を挙げておきたい。組踊は王府の儀礼において上演されたが、王府の資料の中には、お姫様が生まれた夜伽として組踊が上演された記録がある。それから、元士族で明治生まれの人物の手記には「昔は子供が生れると、ユウキ(夜起)という行事があって、一週間の満産まで、毎晩組踊の朗読会を催したものである」*1とある。赤子の魂が体に安定するまでは、夜はマジムン(悪霊)を来させないために起きていなければならなかったのである。その際に組踊の詞章を唱えていたというのは、士族の男性は組踊を何作品も覚えていて、余興として暗唱していた、ということに他ならない。また、男性だけでなく、女性も詞章を諳んじていて、元士族の男性の話で、組踊の台詞を唱えていたら、母親に「アランドー(違うよ)」と訂正されたことがある、という体験談を伺ったことがある。明治になっても士族の家では組踊の稽古を本気で行っている様子は『御冠船夜話』にも載っている。

明治・大正時代の新聞には正月の記事で組踊の詞章を唱える風景が「正月らしい」と記事に登場する。そして、この詞章の朗読会は、真境名安興によると昭和の初め頃まで行われていたようである。今では一般の人たちが組踊を唱える、といったことはあまりないようだが、組踊がかつて身近にあったように、2019年を契機に、組踊がますます身近な存在になってくれることを期待している。

*1 島袋盛敏『琉球芸能全集1』(p.287、1956年、おきなわ社)


鈴木耕太(すずき こうた)
読谷村出身。沖縄国際大学、琉球大学大学院、沖縄県立芸術大学大学院で琉球文学を学ぶ。博士(芸術学)。現在は沖縄県立芸術大学附属研究所 専任講師として県立芸大で研究と教鞭を執る。専門は琉球文学・文化学。その中でも組踊について研究している。

 


 

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