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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

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『私たちの身近にある組踊〜沖縄各地の組踊と組踊台本〜』続編 鈴木耕太

組踊をはじめとする芸能や琉球史に詳しい方々によるコラム。沖縄県立芸術大学専任講師で組踊研究者の鈴木耕太さんに、前回は「沖縄各地に広がる組踊」について、専門家の観点から寄稿をいただきました。今回は、続編についてお楽しみください。

1.「まつり」で奉納される組踊

前回は組踊台本と沖縄各地で上演される組踊等について概観した。本来であればそれぞれの内容をもう少し掘り下げなければならないが、今回は「まつり」(祭・祭り、としないのは、沖縄の豊年祭などの祭りの多くは、地域の神に感謝するという神事と供にあるため、ただ単純に芸能が供され、その芸能を余興として上演しているわけではない、ということを伝えるためである)において奉納される組踊に焦点を当てて考えをめぐらせてみたい。

沖縄各地では一年間のその土地の豊穣を、その土地の神に報告、そして感謝し、来る年の北条を予祝するという「まつり」が粛々と行われている。地域によって「まつり」の形態は異なるが、その「まつり」の多くは供物などと一緒に芸能が奉納されることが多い。

沖縄本島地方では主に旧暦の8月15日に「十五夜」「豊年祭」「村芝居」等の呼称で行われたり、一部、旧暦7月16日に「ヌーバレー」などの盆の期間に行われたりする行事において組踊は上演される。

地域において多少の違いがあるが、最低でも上演の1ヶ月以上前から組踊の稽古は行われる。まずは踊りの師匠達によって配役が決められる。この時には立方の候補者すべてを集め、それぞれに上演作品の主要な役どころの唱えをさせて、その声質(声色とでもいうか、発声の善し悪しだけでなく、体格や雰囲気までさまざまな所を吟味する)を確かめ、それが終わってから各々の配役を決定する。

立方の指導者は、以前にその役を経験した者がこれに当たることが多い。筆者の調査した経験から、現在は前回上演したビデオをもとに、立方それぞれで個人練習をし、台詞が入ったところで場面ごとの稽古、そして通し稽古を行うというような流れの練習風景が多いようである。

通し稽古になると、緊張感は一気に加速する。地謡が座につき、組踊の物語がはじめから展開すると、ときおり、地謡の方から、または踊り師匠の方から立ち役に指導や、細かな指示が入る。立方は皆熱心に唱えを覚え、そして所作や上演における約束事などを覚えるのである。

いっぽうで、本番が近くなると立方・地謡として表舞台に立たない人たちが俄に慌ただしくなる。衣装を点検して、今回の立方に合わせて修正や補修を施し、小道具を整え、地域によっては大道具も組み立て、チェックをする。まさに「縁の下の力持ち」の仕事である。

本番はまさに晴れ舞台である。立方は衣装に袖を通し、化粧を施す。着付けや化粧もその地域ごとに担当者がいて、本番の何時間も前から演目順に準備する。そして全員の化粧を終えてもなお、舞台袖や楽屋に待機して、着崩れや化粧直しを行うのである。

観客もまた「まつり」において上演される組踊にとって大事な要素である。主役が登場すれば矢声(ヤグイ)を掛けて会場を盛り上げる。そして敵討物であれば、仇討ちの場面で欠かせない、指笛などを鳴らすのである。

組踊に限らず、地域で上演される芸能はそこを訪れる「神」に対して奉納として供される。神も人も御馳走を食べ、酒を飲み、そして芸能に酔いしれる。地域で行われる組踊は、舞台に立つものだけでなく、それを支えるもの、そしてそれを見守るものといったすべてが一体となって、本番を迎えることができるのである。

 

2.地域における組踊の伝承

沖縄県内各地における組踊の上演がいつから始まったのか、詳細はまだ不明である。しかし、現存する組踊台本で最古のものは1818年に書写された「本部大主(ムトゥブ ウフヌシ)」で、宜野座村松田に残されている。組踊が初演されたのは1719年であるから、初演から100年ほどで沖縄の各地に組踊の台本は伝播したことになる。

ここで確認しなければならないのは、組踊の台本が伝播したからと言って、その年からその作品が地域で上演されていたとは限らない、ということである。組踊を上演するためには、詞章を覚えるのは当然であるが、作品には琉球古典音楽が演奏されるので、もちろん奏楽や歌唱ができる人物がいなければならないのである。さらに、組踊における三線などの演奏法及び歌唱法は、通常の古典音楽において歌三線で独唱する技術と異なり、前奏を弾かなかったり、歌唱のタイミングが異なったり、歌唱のスピードが異なったりするのである。すなわち、三線が「弾ける」だけではだめで、組踊を上演したという「経験」や、組踊地謡のスキルがなければ成り立たないのである。

そして組踊を稽古して、舞台に立てる(上演される)までにかかる時間は人それぞれだが、近代における組踊立方の第一人者である玉城盛重(たまぐすく せいじゅう)でも、青・少年期に新しい組踊を覚えるためには一つの作品において一ヶ月稽古を積まなければ舞台に立てなかったという。組踊台本が地方に伝播するときに、指導者や演奏家(もしくは指導者が兼任)が一緒になって伝わったと考えるにはかなりむずかしいと考えられる。そもそも、近世琉球において地方の人たちが組踊を間近で観劇することができたとは到底考えられないのである。

蓋然性の高いことから考えると、組踊台本や組踊という一つの文化が地方に広がるには、まず地方役人層が首里で行われていた「組踊」を勉強するために組踊台本を書き写す、ということから始まると思われる。そして1800年以降からは人口が急増した首里・那覇などの都市部に住む士族たちが居住人(ヤードゥイ)となって沖縄各地に都落ちする過程で、「組踊」を地域の人々に娯楽や文化として教えたと考えられる。したがって、地域の組踊上演が盛んになるのは、近世末期から近代に入る頃だと考えられる。近代沖縄になると、芝居小屋や劇団が各地で起こり、地域巡業などの興行で上演された組踊を地域の人々がさらに覚え(レパートリーが増え)、そして地域の「まつり」の奉納芸能として定着していったと考えられる。沖縄各地に組踊台本が広がる過程には、当時の新聞もその一翼を担ったと考える。当時の新聞には定期的に組踊台本が掲載され、校合するとその資料をもとに書き写したと思われる組踊台本も確認できるのである。

まとめると、地方における組踊上演は古くとも1800年代中期からで、盛んになって、定着するのは近世末期〜近代であるといえよう。

沖縄各地で上演されている組踊であるが、すべての地域においてこれからの伝承を楽観的に考えてはいけないと筆者は考える。組踊を伝承するためには、先に挙げたように立方だけでなく、地謡や小道具・大道具に至るまでその地域の人々の大きな支えがなければ伝承することがむずかしいからである。筆者は今年、ある集落の組踊を見に行こうと計画を立てていたが、若い立方がそろわなかったという理由で3年越しの上演が叶わなかった。次の上演は3年後である。一度上演が延期になると、踊りの師匠だけでなく、衣装や小道具を準備することもまた延期になる。その間に伝承の一部が「忘れられる」ことが一番避けなければならない問題である。

暗い話ばかりではない。鹿児島県大島郡和泊町畦布(沖永良部島)では今年、60年ぶりに組踊を復活上演するという気運が高まっていた。筆者もその機会に立ち会うことができたので大変光栄であった。60年前の組踊を記憶していた方々が中心となって、若い人たち、そして村中の人たちと一丸となって上演を成功させようと努力した結果、2019年9月に行われた畦布の敬老会で上演することができ、さらには11月に再演を果たした。
このように、上演が途絶えた地域でも何かをきっかけに再上演、そして継続することも今後は考えられるのである。

地域に伝承される組踊は、その魅力的な作品や演出だけでなく、地域の人々すべての心が一つになる事ではじめて舞台上演が行われるのである。ぜひ、かみしめて鑑賞していただきたい。

 


鈴木耕太(すずき こうた)
読谷村出身。沖縄国際大学、琉球大学大学院、沖縄県立芸術大学大学院で琉球文学を学ぶ。博士(芸術学)。
現在は沖縄県立芸術大学 附属研究所 専任講師として県立芸大で研究と教鞭を執る。専門は琉球文学・文化学。その中でも組踊について研究している。

 


 

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