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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

Interview|匠たちの舞台裏 Vol.5 「金城裕幸 × 上原じゅん子」

300年に渡って受け継がれてきた組踊。「インタビュー|匠たちの舞台裏」は、舞台を支える裏方にスポットをあて、シリーズで組踊の魅力について語っていただきます。
想像を働かせて鑑賞する組踊。その鑑賞の助けとなる約束事を示すほか、演劇にリアリティを生み出す役目をもつ小道具もまた、受け継がれてきた技術のひとつ。小道具製作の金城裕幸(きんじょう・ひろゆき)さんと上原じゅん子さんに、たまきまさみさんがお話を伺いました。

(インタビュー:たまきまさみ)

上原じゅん子さんと、金城裕幸さん  撮影:たまきまさみ

 

Q|組踊等の小道具製作に携わるきっかけ

金城裕幸(以下、金城)|僕は沖縄県立芸術大学に入学した時に、島袋光史(しまぶくろ・みつふみ)先生が非常勤講師で太鼓の講師をしていたので、その授業を受講していました。稽古のため先生のお宅へお邪魔した際に、舞台道具を作っていらっしゃるのを見ていたら、「やってみるか?」と声をかけていただいて、パーツ作りからお手伝いをしたのがきっかけです。一番初めは、のしやバサラ、前花(女形が紙につける髪飾り)の紙切りやパーツ作りなどでした。それなので、芸大在学時からずっと小道具の製作には関わってきました。のしやバサラを習った後は、ハチマチ、団扇、面や天冠(銘苅子の天女が被る冠)、ぜいとか。比較的簡単なものから作っていきました。

実際に舞台で使用されている小道具 ©️(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

上原じゅん子(以下、上原)|私は太鼓で光史先生に入門して、30代の頃から道具製作に関わっています。太鼓の稽古で先生のご自宅にうかがった時に、先生と奥さんが一生懸命、紙に線を引いているんですよ、のしを作るためにね。ですがご高齢で目が悪くなっていたこともあり、線が段々ゆがんでいくんですね。その様子を見ていて、「先生お手伝いしましょうか?」と申し出たのがきっかけです。そこからお手伝いが始まって次々と習うようになりました。太鼓の稽古が終わると小道具製作の手伝いという感じでした。

道具を製作する上原じゅん子さん。演目や舞台に立つ舞踊家、立方をイメージしながら製作している。提供:上原じゅん子

 

金城|光史先生は、楽しい先生という感じ。てーふぁー(冗談)しながら、僕も冗談で返してふたりで笑って作業しているっていう。和気あいあいと楽しくやっていました。

上原|先生のお話を聞くのは楽しかったですね。先生と奥さんは昔ながらの方法でずっと作っていらっしゃったので、そこに私たちが加わったことで新しい発想やアイディアを取り入れながらね。

道具を製作する島袋光史氏 提供:金城裕幸

 

金城|最初、道具製作は3人でやっていたのが、1994年に先生が国選定保存技術「組踊道具製作」保持者になられてから平田智之さんが入ってきて。国選定保存技術「組踊道具製作」伝承者養成事業の一環で、今まで僕らがお手伝いしながらしていた作業をそのまま伝承者養成事業に切り替えて。そこから僕らは伝承者ということになりました。そのときは、道具3人と衣装1人の4人でした。僕はその後、東京の浅草にある「藤浪小道具株式会社」という歌舞伎や映画、テレビの道具を製作している会社で約1年間インターンシップとして働きました。それから東京の国立劇場と建て替え前の歌舞伎座で1か月間は小道具方として、舞台やお芝居の小道具の飾り付けや舞台での受け渡しもやっていました。そのときに学んだ技術を実際に現在取り入れています。先生から継いできたものと、新しく学んだものを掛け合わせ、沖縄にあったスタイルを取り入れています。

Q|小道具から見る組踊の移り変わり

金城|組踊自体の概念が非常に変わってきている。「新作」と「古典」という言葉が出てくるんですけど、その辺は道具の前に僕がとても気になるところです。新作が生まれるなかで、「組踊とは何か。これが組踊だよ」というものを保持者の先生方がしっかり決めてほしいですね。例えば衣装だったら必ず紅型衣装があるとか、紅型幕があるとか。そういう基準を整えていかないと、僕たちは組踊の内容に合わせて道具を作るので、現代に近い小道具になってしまいますよね。組踊を知ってもらうために、今あまりにも敷居を下げすぎているように感じます。研究者の方たちと意見を擦り合わせながら作っていけたらとも思うんですけどね。なのでこれを機に、先生方みなさんがふだん思っていることを意見交換しながら、文献やかつての形に近づけていくような場を設けてほしいです。

上原|先生方に集まってもらって、工夫を重ねてきた話など意見を聞き取りしながらね。

 

Q|「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」や後継者のこと

金城|「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」は、顧問・相談役・会長・副会長など含めて21人いて、そのうち5人が技術者です。光史先生がお元気なころは道具研究所だったのですが、亡くなった後に保存会を設立しました。

上原|保存会の中には伝承者もいて、私たちが過去にやってきたようにパーツ作りからやってもらっていて、若い方から年配の方までいらっしゃいます。若い方たちは仕事など時間の都合もあり、育てていくのもなかなか難しいですね。

金城|後継者がいることはいるのですが、その方たちが習いに来る時間が少ないので作業がどうしても限られてしまいます。今はそこにジレンマがあって。僕たちが習っていた頃はパーツ作りが主で、光史先生が亡くなってからすべてひとりで完成させるようになったのもあり、その状況をくり返さないためにも伝承者には後から自分で振り返ることができるように、習ったことをまず書き留めるように教えていますし、完成までひと通り作業してもらっています。

 

Q|材料探しについて

金城|東京の藤浪小道具で働いていたときも、仕事の合間に朝から晩まで東急ハンズに入り浸って材料を探したりしていました。どんな道具や材料があってこれがどういう小道具に使えるのか常に考えながらで。先生もそうでしたからね。

上原|先生も楽しみながらでしたね。例えば天冠を作る時に、キラキラした飾り物は市販のイヤリングなどを崩して作るんですよね。先生は男性なので材料とはいえアクセサリーをひとりで買いに行きづらかったようで、装飾品を買う時は必ず一緒に行きました。だから私は使いやすそうな材料を見つけた時は、先生のために買って行ったりしていました。編み笠の材料のビーグ(い草)はうるま市で探して来ます。光史先生の時から材料を探すのが大変だったから、どこまでも探しに行く。自然素材はビーグぐらいですね。

金城|竹はチーグシ(杖串)と編み笠にも使います。竹を芯にして編んでいくんですけど、節のある竹がなくて、それを探すのが大変です。

上原|「できるだけ県産品を使いたい」というこだわりが保存会としてはあるのですが、竹は大量に必要なこともあり、県内での入手が難しいので県外に注文しています。

金城|なるべく県産品を使いたいのと、なるべく県内の人に道具を作ってもらいたいですね。国立劇場おきなわ開場当時、大道具担当の方にもかけていただいた言葉なのですが、今回の10月4日、5日にあった研究公演「御冠船踊と組踊」の花火の仕掛けについても、調査養成課長の茂木仁史さんから「なるべく沖縄の人に作ってほしい」という言葉もあったので。そういう言葉をもらえて仕事ができるのは、ありがたいなと思うんですけど。だからなるべくウチナーンチュで継いでいきたいという思いはありますよね。

2019年 国立劇場おきなわ野外公演「御冠船踊と組踊」より花火のシーン ©️(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

Q|これまで作った小道具で印象に残っている物

金城|今回、8月の新作組踊「花の幻」(2010年初演)で三線を割る演出があり、道具の仕掛けを作ったんですけど。あれがもう心が痛くてね、「切ります」って言ってから切ったんだけど。実際に折れる場合どんなふうに折れるのか、実演家であり三線職人でもあった又吉真也先生に相談して。恐らく断面に沿ってまっすぐではなく、裂けるように折れるはずだからということだったので、切り口は斜めにしてあるんです。そういう仕掛け物は、演じている人が「これはおかしくないか?」と思わないように工夫するという点で大変ではありますね。演じている人が違和感を覚えたら、演技にも出てしまうと思うし、そうすると客席にも伝わりますからね。後は金のぜいとか、組み立て式の鐘ですね。光史先生が最初に作った鐘はねじ式の物だけど、僕はねじを使わない差し込み式に改良しました。ちょっと不思議なのは、本当に自分が作ったのかな、自分にしてはよくできているなとたまに思ったりして。なんか作らされているなという、神秘的なものというかそういう感覚を覚えることがあります。

新作組踊「花の幻」(2019年)より三線を割るシーン ©️(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

鐘の製作風景(島袋光史)提供:金城裕幸

 

上原|よくこれを作れたなと感心することもあれば、逆もあります。なんで私はこんなふうに作ったかなと、そんなときはワジワジー(イライラ)するけどね。いい時もあれば悪い時もやっぱりあるから。その時その時の、そういう感覚…何かはわからないけどあるよね。特に創作舞踊の場合は、立方のイメージと私のイメージがあり、どういう曲で、着物で、内容でとひと通り把握して作り始めるんですけど。自分が作った物と相手のイメージができあがった時にぴったり重なるとうれしいですね、イメージって目に見えない物なので。

金城|意識するようにしているのは、「ウチナーラーサン(沖縄らしい)」というもの。僕がよくやるのは、陶芸の金城次郎さんの作る、大胆でダイナミックな作風をイメージすること。あまり緻密な物は沖縄の風土に合わないような感覚があって、ある程度の荒さを出したいなと。舞台でも荒い物のほうがよく見えたりもするし、あまり上等に作りすぎると舞台映えしないので。そういうことも踏まえて、いい感じの雑さというか荒さを残してやりたいなと。僕はまだそこがうまくできないのですが、もう少し年を取って気力が落ちてきたらそうなるかもしれない(笑)そしたら沖縄らしいものができるのかなと。

道具を制作する金城裕幸さん。継いできたものと新しい技術を取り入れながら常に「沖縄らしさ」を心がけている。提供:金城裕幸

 

上原|先生のそばで一緒に小道具を作ってきて、先生の作っている手順で習ったものと違うやり方をしていることに気づいて、もう少しこうだけどなと思うことがあって。先生は後からちょこっと手直ししながら作るんだけど、それは多分長年やってきているから、多少手順を変えたりしてもそれが味になって良くなるのかもしれないですね。

金城|僕たちが今作っている物を伝承者のみなさんが頑張って作れるようになってくれたら、僕たちは絵巻に残っている物を復元したり、研究したりというような次の段階にいけるんですけど。国立劇場おきなわで、小道具の常駐者も置いてくれたらいいね。東京の国立劇場も歌舞伎座も舞台袖にあるんですよね、小道具製作部屋が。不具合が出たらすぐ直したりできるような部屋があるので。

上原|保存会が常駐してその役目を担えたらいいよね。先生もそういうのがあったらいいなと仰っていたけど、なかなか実現には至らなくて。先生の代からの願いだからね。

金城|そうすれば今考えているハチマチの生地の復元ができたりとか、研究的なことがもっとできるのかなと。そのための予算が付けばいいんですけどね。後々、保存会が会社になればいいですね。

上原|光史先生がお元気な時から、先生が頑張っている間は応援しますけど、先生が辞めたら私もやりませんよという話を、ずっと言い続けてきたんですけどね(笑) 金城さんたちが会社にして頑張るしかない。みんなで頑張りましょう。

金城|僕たちも小道具製作を受け継ぐ一部になって、また次に継承していくための一人にならないといけない。光史先生は「常に工夫をしなさい」と仰っていたし、先生ご自身も試行錯誤して作ってきたなかで、「いろいろな技術を取り入れながらもっと良い物を作っていきなさい」ということだったので。昔の物をそのまま伝承していくことも大切なのですが、発展させていくことも大切なので、それを今後はやっていけたらいいなと思っています。


インタビュー:たまき まさみ
1978年、那覇生まれ、那覇在住。フリーペーパー「夕焼けアパート」主宰。ライター。
幼い頃からもの書きになりたかったものの、どうすればなれるのかわからず路頭に迷って25年。出版社で仕事が見つからず、自分の媒体を作ることを思いつく。現在は「夕焼けアパート」の活動をきっかけに、新聞を中心に沖縄の文化や芸能、景色、ときどき食レポを書いています。国立劇場おきなわ企画制作課に嘱託員として勤務。琉球芸能を舞台裏で勉強しています。


 

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