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組踊上演300周年記念事業-特別企画-

Interview|未来への継承者たち Vol.7「和田信一」

1719年に組踊が上演されてから300年、多くの先人たちによって組踊が今日まで伝え続けられてきました。
「インタビュー|未来への継承者たち」は、次の100年をつなぐ役割を担う中堅・若手実演家たちにスポットをあて、シリーズで組踊の魅力やこれからの組踊について語っていただきます。

地謡の若手実力者があつまる「歌鎖」のメンバーとしても活躍する
和田信一さんは、かつて球児だったそう。
県外出身の和田さんが、組踊の地謡になったのは、ご出身の京都ならではの芸能との出会いにありました。

(インタビュー:真栄里泰球)

Q|京都のご出身ですが沖縄に来た経緯は。

和田信一(以下、和田)|小さい頃から、気がついたらずっと野球をやっていて、高校でピッチャー、大学では内野と外野でした。就職したものの、野球ほどは情熱を注げず、くすぶっていた時に、今でいうJICAのボランティアに応募したんです。首里の老人ホームに派遣されました。2002年、23歳でした。期間中に1曲くらいは三線を弾けるようになるだろうと思って。最初はTHE BOOMの「島唄」だけで良かったんです。デイサービスの職員にお願いしたら、「おじぃ、おばぁが好きそうな民謡が5曲できたら教えてあげる」と言われたんです。初心者でもできそうな曲をピックアップして独学しました。おじぃ、おばぁが褒めてくれて、そのうちリクエストも来るようになりました。「来週までに覚えてきますね」と約束して、その曲ができるようになると喜んでくれて、「島唄」はどこかに行ってしまいました。ホームがある地域の祭りで、ボランティアが一芸をする決まりみたいなのがあったんです。櫓の上でガチガチになってましたが、おばあちゃんたちが踊ってくれました。

 

Q|三線が好きになったんですね。

和田|ボランティア期間に知り合った方がツアーの企画会社をしていて、そこで働くことになり、三線工房巡りツアーなど提案したりしていました。三線に関わる仕事がしたいと思うようになり、ホームの職員に三線屋さんがいたので弟子入りしました。三線の製作です。基礎も大事だと古典の安冨祖流も習うようになりました。夜は居酒屋でアルバイトでした。そこに沖縄県立芸術大学の学生が来ていて、社会人でも入れると聞いて興味がわきました。新人賞は取っていて、最高賞を取るまでは沖縄にいようと思っていたので、その期間で通えるだろうとの目算はありました。

Q|芸大はどうでしたか。

和田|30歳で入学したので、同期でも年下で、一回り違う人もいました。寄り道は多かったけれど、三線でやっていくのは決めていたので、気持ちに曇りはなかったです。組踊を見たのも芸大に入ってからです。学内演奏会の「執心鐘入」でした。大合奏室に置いてあった鐘を見て、「どこかで見たことあるな」と思い返したら、幼稚園の時でした。京都の二条城の近くの神泉苑に幼稚園があって、そこで「壬生狂言」をやっていました。子ども心に好きでした。その「道成寺」の鐘だと。組踊に興味を持ったのは、芸大の先輩方の演奏を聞いたからだと思います。先生方がうまいのはある意味当たり前ですけど、年下の先輩がうまい。入学した時は「かぎやで風節」を先輩が独唱するだけで凄いと思っていました。地謡なんて自分にできるはずないと思ってました。

Q|組踊の楽しさは。

和田|修士演奏会で「手水の縁」をやったんですよ。自分も奏楽堂で演奏して、緊張感が忘れられなくなりました。緊張の楽しさの一方で「花売の縁」はうきうきする楽しさがあります。新作組踊の「初桜」(嘉数道彦作、新垣俊道音楽)は憬れです。去年は「二童敵討」などにある「仲村渠節」を意識的に歌いました。低音に自信がなく、良く指導されるので、まだまだできてないと思うのですが、最近は本調子の曲が楽しいです。

子どもたちにも親しんでもらおうと作られた組踊版「さるかに合戦」の地謡を務める(右から2人目)©シアター・クリエイト

 

Q|師匠の大湾清之先生(重要無形文化財「組踊」、「琉球舞踊」保持者)はどんな先生ですか。

和田|芸大の博士課程で研究していますが「大発見だ!」と報告に行ったら、「あ、それね」とさらに先に行っている。底が知れなくて、お釈迦様の手の上の孫悟空みたいな感じです。先生の理論を知ってから、歌の基本が見えてきて、感動でした。自分で考える頭ができました。大学院に進んだのは先生からもっと学びたかったから。先生に会ってから古典が好きになりました。

三線音楽公演 古典音楽の美より(2019年5月25日) 古典音楽斉唱「十七八節」(安冨祖流)を披露する和田信一さん @(公財)国立劇場おきなわ運営財団

 

Q|苦労したことはありますか。

和田|県外出身で苦労したのは、実技面では発声技術などですかね。大湾先生は「口説などは話すように歌うといいんだよ」とおっしゃいますが、僕の言葉の音は沖縄の人と響いている場所が違うことに気付きました。大学院で比嘉康春先生にマンツーマンの授業をお願いして、ひたすら発声をしてもらいました。「土着の響き」と康春先生はおしゃいますが、どうしたらその発声に似るかなと考えました。地謡8人で「歌鎖」という古典音楽だけの公演をしていますが、メンバーには教わることが多いです。今は、うまくならないと申し訳ないくらいの環境で、自分が一番得していると思います。

琉球古典音楽を探究する「歌鎖」は東京都の紀尾井ホールでも公演した。©シアター・クリエイト

 

Q|同じ沖縄以外の出身者にメッセージはありますか。

和田|僕は、自分ができているか、いないのかも分からなかったので苦労しました。県外でうまいつもり、できているつもりになるのは危ないです。「覚える」イコール「できる」ではないので。どうしようもなくうまい人に会うと打ちのめされるじゃないですか。県外にいるとそういう機会が少ないです。発声は自分の歌を録音して、うまい人と比べて聞いた方がいい。情報があふれているので、沖縄でなくてもできると思うかも知れないけれど、沖縄に来た方がいいです。

Q|これからの目標は。

和田|二揚と本調子を聞かせられる地謡になりたい。 明治から昭和の名人・金武良仁の音源など聞いていると、唱えと歌の切り替えのところ、唱えから歌までがずっと歌になっている感じがします。自分の録音を聞くと、必死に頑張って歌っている。聞いている人がストーリーに入りこめるような歌になりたい。できるかどうか分からないけど、やりたいです。京都にいるときはできそうなものを選んでいました。野球は好きだったけれど、できそうだから、うまいと言われるからやっていたところがあります。沖縄に来てからは、できるかどうか分からないけど、やりたいことをやっています。大湾先生を目標に。

 


和田信一 わだ・のぶかず 1979年、京都市生まれ。琉球古典音楽安冨祖流絃聲会師範。大湾清之に師事。県立芸術大学大学院博士課程。


 インタビュー:真栄里泰球(まえざと・たいきゅう)
2001年沖縄タイムス社入社。組踊や琉球舞踊など琉球芸能を長く取材。
新聞のほか国立劇場おきなわステージガイド「華風」、各種雑誌などにも寄稿している。

 


 

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